2006/08/30

lalala 001

現在進行中の「la la la (仮)」が、
色々な意味で早速行き詰まっているので、
自分自身への戒めも兼ねて、
初心に還ってみようと思う。


2006年度「ぴあ・フィルム・フェスティバル」(以下PFF)の影響が大きかったとしか言いようがない。

グランプリは、掌握範囲内だ。

グランプリをとる秘訣は、映画としての完成度の高さ、それだけだと言い切っても、過言ではない気がする。
内容や主題、そういったものではなくて。
映画のデジタル化が落ち着きを見せたことにより、20年前と比較すれば、「誰でも映画が撮れる時代」になり、だからこそ、稚拙な作りのものが目立ってくる中で、「映画としての完成度」が問われているのかなと思うと、まあ、納得いかないでもない。

「映画としての完成度」が「問われている」と書くと、言い過ぎかも知れない。
「問われている」というよりかは、必然的に、「完成度の高いものが希少」だからだろうと思う。

むかしむかし、映画製作は、とても技術的なものだった。
写真技術の発達とともに誕生し、その後も、基本的には記録技術と再生技術の発達と背中合わせで、映画史は動いてきている。
職人が作るものだったのだと思う。

僕自信がとても分かりやすい例なんだけど、デジタルビデオカメラでの撮影を「起源」とする作り手が、溢れかえってきている。
フィルムの価格、知識、技術と比べれば、ビデオカメラでの撮影なんて、小学生にだってできるほどの、敷居の低い作業だと思う。
そこを起源とする人間が増えれば増える程、技術的/経験的/知識的な敷居の高い(おまけにコストも高い)フィルムでの映画製作を行い続ける人は、減る一方であるに決まっている。

そこでの落差が、たぶん、一つの反動みたいなものとして、現在の自主映画市場の、「映画としての完成度の低さ」を物語っているのだと思う。
もちろん、今の自主映画の作り手たちに言わせれば、自分たちの「映画としての完成度」が低いというよりかは、むしろ、過去のものが「完成度に寄り添いすぎていた」ということでもあると思う。
今が過渡期で、転換期で、過去の方法論のほとんど全てが意味をなくしている時期にあると思う。
そんなケオティックな状況にあるからこそ、観客の側に立てば、「それでも上映が終わるまで観るに値するクオリティー」はもちろん必要なのだから、そういう作品が希少であるが故に、グランプリをとるのも、いたって必然的だ。

僕自身も、カテゴリー的には、「映画としての完成度の低い」作品を作る部類に含まれている。
僕自身も、一向に「映画らしく」ならない自分の作り方に嫌気がさしている。

そんなおり、2006年度のPFFアワードを観て、そこで感じたことは、利害の一致だったのだと思う。
自分の不足面と、映画祭側の要求面とが、完全に一致している。

これは、この上ないチャンスなんだと思っている。
早急に、PFFの〆切に間に合わせる形で、次期作を企画してみた。

便宜的に「ららら語学の子」と名付けてみた。笑。
矢作俊彦氏の「ららら科学の子」からパロったのは、言うまでもない。
それにしてもひどい。
あまりにもひどいパロディーなのだけど、それでも便宜的にタイトルは必要なので、「la la la」に還元しておいた。

最近、引用やパロディーから、意識的に遠ざかることを止めている。
「オリジナリティーなんて、そんなもの、一体どこにあるんだい?」
というスタンスを出発点にしている。
完成した時に、作品のうちの、例えば5%くらいに、自分のオリジナリティーが見受けられれば、本望だ。


2006.08.30

4:00 a.m.

笹本

2006/08/06

祇園精舎のプロトコル

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり
シオン賢者のプロトコル、諸行無常の響あり

近しい人三人、各々が英語圏へと旅立っていった。
一人、5月にオーストラリア、パースへ。
一人、一昨日、アメリカ、ニューヨークへ。
一人、月末、イングランド、ロンドンへ。

一昨日、iを成田空港に見送りにいった。
プラクティカルに言えば、高校時代からの、今となっては一番付き合いの長い友人。
(中高一貫だったから中学時代から知ってはいたけど、付き合いだしたのは高校に入ってから)
彼はアマチュア物書きで、僕の知り合いの中では誰よりも音楽と文芸に精通している。

以前、彼と彼のまわりの人間が自主発行していた文芸誌「ムカウ」にだいぶ触発されて、かなりその方向性を引き受けながら、今は、定期的に僕と僕のまわりの人間が「展示会」なるものをやろうとしているところ。

何が書きたいのか良く分からない。

僕は、空港に弱い。
いつ空港に行っても、何とも言えないある一定の心情に達する。
どんな状況に置かれていても、空港に行くと、ある種の感情を抱くことになる。

「シオン賢者の議定書(プロトコル)」という文書がある。
日本列島に初めて「ユダヤ人」という観念が輸入されるきっかけとなった文書だ。
「シオン賢者の」まで読み上げてみたら、
頭の中では「祇園精舎の」って読んでいた。
鐘の声、諸行無常のプロトコル。
諸行無常のプロトコルなんてあったら、いいな。

流動性を議定してみる。結構、売れるんじゃないかな。
みんな、自分の都合に合わせて読めるようなものだろうから。

最近、近しい人が「artist, artist」と連呼しているので、その言葉をよく耳にする。

加えて、現在、音楽プロデューサーの方とのお付き合いが始まったので、
「もの作り」っていう言葉もよく耳にする。「クリエイター」も。

「クリエイター」っていう言葉は、非常に使い勝手がよく、流布していて、流れにのってしまったのか、僕もたまに使ったりする(相手にそう呼ばれることを否定しないというカタチで使ったりする)。

自分をどう呼ぶか、すごく大切なところ。
シュルレアリスムの画家ダリは、絵筆を紙面に宛てる前に、まず、恰好からアーティストっぽく攻めていったらしい。
あの髭具合とかね。

すごく賢い戦略だと思う。

イメージを固めて、現実には後からついてきてもらう。

言葉も一緒だ。
エクリチュールっていう概念がある。
たしかフェルディナン・ド・ソシュールっていう人が提唱した概念なんだと記憶している。

ちょっとややこしくて詳しい説明は省こうと思うんだけど、エクリチュールは、つまり、「意図的に選択する話し方」のことだと理解している。

違ってたらごめんなさい。

例えば、営業マンのエクリチュールっていうのがあって、いわゆる、「営業マンっぽい喋り方」を意図的に、営業マンに成り立ての僕らは選ぶことになる。
そうすることによって、自分の考え方や性格、人間性にまで影響を与えることになる。

僕は日英のネイティブ・バイリンガルなので、この、「エクリチュールによる人格形成」に関しては、かなり自信をもって、賛成している。

日本語を話す時の僕と、英語を話す時の僕とでは、明らかに人格が違う。
(ちょうど、今書いている脚本も、そういうことを扱っています)

日本のような国で、家庭内言語と社会言語とを使い分けながら育っていくと、ある、特定の癖がつく。

「相手に合わせて言葉を選ぶ」という癖。

これはもちろん、当初は、相手に合わせて、英語を使ったり、日本語を使ったり、っていうくらいの選択でしかない。ここから発展して、深まっていくと、言語だけでなく「言葉遣い」も相手に合わせて選んでいくことになる。
もちろん、例えば、「上司には敬語を使う」とかもその一例なんだけど、
僕の場合、その度合が、とてもとても深い。
「言葉遣い」に対して、異様に敏感なのだと思う。

空港。祇園精舎。ダリ。エクリチュール。

「祇園精舎の鐘の声」と「シオン賢者のプロトコル」とを
ミックス&コラージュしたくなったのも、
きっと、5-7-5のリズム感のせいなんだろうな。
言葉の持つ、リズム感。リズム感には、韻も含まれていて。

俳人はだから、5-7-5のエクリチュールで世界を見つめていたのだろうな。
だから、言葉を最小限に、かつ、リズミカルに、断絶的に、世界を美しく捉えて離さなかったのだろうと思います。

言葉の意味ではなく、リズム感だけで覚えている歌があります。
意味も、それによる情景描写も、後付。
とりあえず、韻の心地よさとリズム感。
子どものころ覚えて、頭から離れません。


金色の
小さき鳥の形して
銀杏散るなり
夕日の丘に

与謝野晶子


2006/8/6
笹本